[ 御油 旅人留女 ]
日が落ちた街道の真ん中で、旅人を力づくで引き込もうとしている留女と、もがき苦しんでいる旅人が二人。
宿の中にはその様子を眺める留女と、その留女に捉まったと思しき旅人が足を濯いでいます。
薄暗くなった家並はところどころに木の枝が街道まではみだしています。
[ 御油 音羽川に架かる橋(2022 04 16) ]
御油宿だったところは道の幅こそ昔のままですが、両側に並ぶ家屋は普通の住宅に建て替わっていたり、空き地になりどこまでが宿場だったのか判別しにくいところです。
旅館から留女が出てくるような雰囲気は全くありません。
宿場に入る手前の音羽川に架かる御油橋は、1935年に架けられたコンクリート橋ではありますが、街道だったことを示すような橋です。
[ 御油 松並木(2022 04 16) ]
御油で最も昔の面影が残っているのは、赤坂宿との間に残る松並木です。
東海道本線が三河湾沿いを走るようになったため御油、赤坂、藤川の宿は衰退し、国道1号も1950年代にバイパスが造られたため、旧・東海道は拡幅する必要性が低く、松並木は伐採を免れたようです。
松の木の太さはまちまちで、素直にほぼ真っすぐに伸びた松、道路の上空を横断している松、江戸時代から残っていたと思われる直径1mほどの松など、生え方もいろいろです。
太さが異なるのは、枯れた松があれば補足するように植えられた松があったのでしょう。
松並木があると日差しが遮られるので、暑い時期の旅行者にはありがたい施設ですが、樹勢が衰え倒木の恐れがある松は伐採され腰掛のようになって年輪をさらしています。
[ 御油 松並木資料館(2022 04 16)]
御油宿の近くに松並木資料館という小さな資料館があり、東海道が制定された直後の1604年に徳川家康が植えたと思われる松が展示されています。
掘り起こされた巨大な根とカットされた太い幹をみると、昔の並木の壮観な姿が想像できます。
到着した時刻が早すぎて開館まで待てませんでした。
[ 赤阪 旅舎招婦ノ図 ]
手ぬぐいを肩にかけた湯上りの客が向かう部屋は、煙管を吹かしながら横になりくつろぐ客に、仲居が膳を運んでいます。別の部屋では飯盛り女が鏡に向かって念入りに化粧をしたり、髪の手入れをしています。
中庭にはソテツのような庭木と石灯籠が逆光で描かれています。
[ 赤阪 大橋屋(旧旅籠鯉屋)(2022 04 16) ]
御油の松並木を過ぎると赤阪宿に入ります。
赤阪宿の旧・東海道は5m程度の幅しかなく、乗用車のすれ違いが精一杯の状況です。
古い建物はほとんどなく、唯一残っているのが赤坂紅里交差点近くにある尾崎屋と大橋屋です。
尾崎屋は民芸品・曲編 製造卸問屋と書かれた行灯が出ていますが、現在も営業しているのかは不明でした。
大橋屋は、江戸時代の旅籠から平成の時代まで旅館の営業を続けていた建物ですが、現在は豊川市の施設となり一般に公開されています。
旧・東海道沿いは駐車場や空き地になった敷地もあり、家並みの連続性が欠け[赤阪 旅舎招婦ノ図]にあるような賑わいがあったとは思えません。
[ 赤阪 関川神社のクスノキ(2022 04 16) ]
建物以外で残っているのは、関川神社にある樹齢800年といわれる御神木のクスノキです。
極太の幹から神社の小さな社を覆いつくすように枝が伸びています。
御油宿も赤阪宿も、江戸時代ならではの営業手法で賑わった旅籠があったため、繁栄できた宿場なのかもしれません。
[ 藤川 棒鼻ノ図 ]
宿場の出入口で、馬を献上する行列を宿場の役人が膝をついて出迎えています。
その横で、人の仕草を馬鹿にしたように子犬が戯れています。
棒鼻は「ここより〇〇宿」と書かれた柱で、画面の中央に大きく描かれています。
[ 藤川 棒鼻跡(2022 04 16) ]
藤川宿への出入口だった江戸側の棒鼻は、ミニ公園として整備されています。
[藤川 棒鼻ノ図]の背景にある田んぼは、区画が整えられ現在でも残っていますが、石垣の上は造成されて工場が立地しています。
ここの棒鼻から北西約1.1kmに渡り藤川宿が続き、ところどころ格子戸のある家屋を見ることができます。
本陣の建物は残っていませんが、敷地を支えていた石垣が残っています。
本陣跡の広場からは、山綱川に沿って走る名鉄本線や国道1号を見ることができ、本陣跡に比べ低いところを通っているのがわかります。
本陣は藤川宿の中でも最も標高が高く、浸水の恐れがない安全性な場所にありました。
[ 藤川 名鉄藤川駅と道の駅「藤川宿」(2022 04 16) ]
現在の藤川には道の駅「藤川宿」があります。名鉄本線を挟んで反対側を通る国道1号沿いにあり、旧・東海道の藤川宿に代わり道の駅「藤川宿」は多くのドライバー、観光客が施設を使っています。
道の駅は、安全で快適に道路を利用するための道路交通環境の提供、地域のにぎわい創出を目的とし、1993年から国土交通省道路局の登録が始まった施設です。
高速道路にあるサービスエリアの一般道路版のような施設で、集客力があるため地方では観光施設として力を入れて整備され、物販・飲食のほか温泉や宿泊施設などを備えた道の駅もありあす。
[ 藤川 家康の石像(2022 04 16) ]
道の駅「藤川宿」は個性的な施設はありませんが、隣接して名鉄藤川駅があり徳川家康の石像が鎮座しています。
隣には岡崎市の地域交流館もあり、道の駅周辺が賑わうと旧・東海道の藤川宿はますます静かになってしまいそうですが、
宿場のはずれにある松並木のためには良いことかもしれません。
[ 岡崎 矢矧之橋 ]
矢作川に架かる旧・東海道で最も長いといわれた橋の上を、西から東へ向かう大名行列が橋を埋め尽くしています。
矢作川の対岸には徳川家康が誕生した岡崎城がそびえたち、その下には岡崎の家並みが広がっています。
川の中はススキのような水草が茂っていますが、岡崎は矢作川の水運拠点でもありました。
[ 岡崎 矢作橋(2022 04 17)]
現在の矢作橋から岡崎城方面望むと、岡崎城は橋の下流側に天守が見えます。
天守が見えると言っても、矢作川と岡崎城の間にビルが立ち並んだため、天守最上層の屋根だけです。
[岡崎 矢矧之橋]の絵は橋の上流側に岡崎城が見えるので、現在より橋の位置が下流にあったのか、橋の向きが違っていたのかもしれません。
天守の後ろに黒々と描かれている小山は、標高64.5mの甲山ですがほとんどが宅地化され、今では神社や甲山古墳の緑が残っている程度です。
岡崎城は徳川家康が生まれた城として重要視されていましたが、明治になると一変し1873年に天守を含む建物は破却されてしまいました。
現在のお城はコンクリート製ですが、復元されないよりはマシです。
[ 岡崎 乙川に架かる桜橋(2022 04 16)]
岡崎城の南側を流れる乙川は岡崎市街を東から西に流れ、旧・東海道沿いに発展した市街地と名鉄東岡崎駅、JR東海道線岡崎駅を結ぶための橋が複数架かっています。
この中でも1927年完成の殿橋、1937年完成の明代橋はいずれも鉄筋コンクリート製の現役で、最近は夜間ライトアップされています。
岡崎市は「観光産業都市」の創造に向け、乙川の豊かな水辺空間を活かしたまちづくりを推進し、橋のライトアップもその一環で行われています。
市街の主要施設を周遊する動線に乙川が組み込まれ、堤防上の道路は川側に歩道を設け、川岸も歩道状に整備するほか護岸を階段状にして座れるようにしています。
さらに思い切った取組として、2020年乙川に木製の橋面をしつらえた桜橋を架け、川の上に2000㎡の公園を創り出し乙川の左右岸を結んだのです。
橋の上には休憩所が造られ、カフェレストランとして使われるそうです。
桜橋は高欄に照明が組み込まれ、自ら光を発する美しい景観の橋になっています。
[ 岡崎 リバーサイドテラス(2022 04 16)]
[ 池鯉鮒 首夏馬市 ]
杭につながれたたくさんの馬が叢の中で草を食んでいます。
これらの馬は宿場のはずれで夏に開かれる馬市に出される馬で、遠くには馬を連れてくる馬子の姿もあります。
真ん中に大きく描かれている松は談合松といわれ、木の下で売り手と買い手で競りが行われていました。
[ 池鯉鮒 松並木(2022 04 17) ]
池鯉鮒宿の東で行われていた馬市周辺の風景は、今では様変わりし工場や民家が立ち並び、馬が食んでいたような草叢を見ることはできません。
その代わりに[池鯉鮒 首夏馬市]では談合松一本しか描かれていなかった松ですが、街道沿いには松並が
残っています。馬市は松並木から外れた場所で行われていたようです。
ここの松並木に太い松が少ないのは、1959年の伊勢湾台風により6~7割の松が損傷したため、その後に補植されたためです。
1959年はまだ周辺に建物がなかったので、松並木が台風の強風を一手に引き受けてしまったのでしょうか。
[ 池鯉鮒 知立市内の水防倉庫(2022 04 17)]
旧・東海道を知立宿に向けて進み、名鉄三河線の踏切を渡り少し行くと右手に「知立水防倉庫」と書かれた建物があります。
薄い水色で塗装された木造の倉庫で、河川の氾濫や浸水の際にこの倉庫にある資材で被害を軽減する「水防活動」を行うためのものです。
知立のこの場所に大きな川は流れておらず、浸水想定区域にもなっていない地域なので、ここに水防倉庫があるのは不思議な感じです。
[ 池鯉鮒 知立駅付近の連続立体交差工事(2022 04 17) ]
知立駅付近では名鉄名古屋本線と三河線の踏切を除却するために、連続立体交差事業が行われていました。
完成の暁には名古屋本線が2階を、三河線が3階を走ることになり、2階と3階の間に乗換階ができるので一部4階の3階建て立体構造の知立駅に変わります。この事業により駅周辺にある10か所の踏切が無くなる計画で、総額792億円の大プロジェクトです。
鉄道の工事に合わせて道路の整備もあちこちで行われ、市内全域が工事中の様相です。
踏切をなくすためには大金がかかりますが、2022年度時点で全国にまだ32,733か所の踏切があります。
<参考資料>